夢のあと

 曇天の下、すぎる風はどこまでも不透明で生温かかった。
 台風が近いせいだろうか、ここのところ天気が崩れており客足も絶え絶えだ。 読んでいた新聞を脇によけて、ふぅと息を落とす。 空中に放り出された僕の心もとない感情は、くるくると弧を描いて溶けていった。
 レジ横に置いた貝殻のアンティーク時計に視線を移せば、午後の三時半。
(いつもより早いが……今日はもう誰も来ないだろうし閉めてもいいか)
 妻お手製の”CLOSED”の看板を、ちょいと扉にかけると簡単に戸締りをして カウンター席に腰を下ろした。

「ふぅ……」

 またも溜息。まだそんな年でもないのに、ここのところ疲れがたまりやすい。
 去年の僕の誕生日、孫の瑛に「じいちゃん、いつもお疲れ様」と 孫の手をプレゼントとして渡された時は、素直に喜ぶべきか叱るべきか真剣に悩んでしまった。
 寄せては返す漣の音と、つらつらと物思いにふける単調なリズムが交じり合い、眠気を招く。 頭がぼんやりと霧がかかったように重くなっていき、いつしか僕の意識は途切れていた。




 どれぐらい時間が経ったのか。ぱちぱちと暖炉の薪が爆ぜる音がする。
 ふいに僕の肩を揺らす手の温度に、意識が浮上した。
 ぼんやりとした視界の中、こちらを見る強い瞳に僕は知らず笑みを浮かべる。

「さゆり」

 何時の間にそこに居たのだろうか。僕の妻が、怒った様子でそばに立っていた。

「呆れた。あなたったら、こんなところで寝るなんて。風邪をひいたらどうするんですか」
「ああ、すまない。……今、何時だ?」
「もう夕方です。お店を閉めるのならそう言って下されば良かったのに。 瑛がとても楽しみにしていたのですよ、今日はお店を手伝うぞーって」

 妻が顔を背ける仕草に合わせて、首もとを飾るアクアマリンのペンダントがしゃらりと音をたてた。 いつかの彼女の誕生日に、瑛が見立てて息子が買ってきた贈りもの。
 つん、とそっぽを向く様子はまるで年若い娘のようで。
 彼女はいくら年を重ねても、こうしてあどけない少女のような仕草をする時がある。
 いつもなら苦笑いですます所だが、瑛が楽しみにしていたと聞いて不思議な気持ちになった。

「瑛? あいつがどうかしたのか」

 釈然としない気持ちのままさゆりを見ると、部屋の温度がわずかに下がった気がした。
 そんな僕たちを気にも留めない明るい声が、冷えた空間に温度を与える。

「じいちゃん、ばあちゃん! 今日、お店おやすみだったの?」
「ごめんなさいね、瑛。おじいちゃんったら、今日は瑛が遊びに来る日だということを忘れて勝手に店 を閉めてしまったのよ」
「えー! なんだよ、それー!!」

 ぶぅと頬を膨らませる孫は、まるでフグのようだ。けれどそんな顔をしている瑛を、あらあらと笑顔で 見守っているさゆりは、とろけるような表情をしていた。さすが、友人たちに「さゆりさんは、瑛くん を目に入れても痛くないんだろうなぁ」なんて笑われるだけのことはある。

 ぱちん。

 暖炉の薪に火花がまた堕ちる音。

――この光景は。

 ぱちん。

 あどけなく微笑む瑛と妻が、呆然としている僕を置いて、楽しげに会話をしている。

「もうこんな時間だし、今日は泊まっていきなさいな」
「本当!? いいの? ……あ、でもお父さんが」
「いいんですよ。お父さんたちには、おばあちゃんがちゃーんとお話しますから。本当にあの 子ったら過保護で困ったものよねぇ」
「ばあちゃん、ありがとう!」
「ふふ、どういたしまして。そうだ、瑛。何か食べたいものはある?――」

 とめどなく続くにぎやかな話し声に、ふと空白が出来る。さゆりが僕を見るのと、僕がふたりを見つめ る視線が重なって。
 刹那、楽しげな輝きを瞳に宿したさゆりが、いたずらっぽく笑った。
 ぱちん。
 暖炉の火がいっそう燃え上がり、薪がまたひとつ、爆ぜて折れた。

――これは、昔の。

 小学生の瑛の身長は、まださゆりの肩ほどにしか届かない。ふたりは外食に行くことにしたようで、手 をつないで外へ出て行く。ぴょんぴょんと跳ねる、瑛のちいさな頭が妻の肩越しに見えた。
 扉が閉まる、その瞬間。
 さゆりのペンダントトップのアクアマリンが、きらきらと彼女の瞳のように輝いていた。




 ぱちん。
 ぱちん。
 ぱちん。




 からん、ころん。『珊瑚礁』のウィンドチャイムが遠くに響いた。
 僕はゆっくりとクリアになっていく視界に、見慣れたはずの店内を映しながら瞳を開く。
 けれど見えたのは、花の強い芳香に包まれた色とりどりの色彩。
 先ほど閉まったはずの扉が再び開いて、二つの人影がゆっくりと入ってくる。
(瑛、さゆり――?)
 夢なのか現なのか。もう一度よく目をこらそうとした僕のそばで、知らない女性の声が聞こえた。

「ふたりとも、ありがとう。その花はそこでいいわ。おろして」

 ぱちん。
 響く、硬質な音。
 花バサミを手に、アンネリーと胸元に書かれたエプロンを身につけたショートカットの女性が再びあ の音を鳴らした。
 ぱちん。ぱちん。
 気づけば、冬物だと思って着ていた店の制服は夏物で、薪が爆ぜる音だと思っていたものは
花の茎が断たれる音だったらしい。
 僕が身を起こしたことに気づいたのか、店内に居た三人が一斉に僕の方を見た。

「あ、マスター。もしかして起こしちゃいましたか? ごめんなさい!」
「だから言ったろ、もっと静かに運べって!」
「……サエキがちょっかい出したせいよ。あれでバランス崩したんだけど」
「キコエマセン。つーか、おまえのバランス感覚に問題があるんだろ。カピバラだから」

 目の前には、高校生になった瑛と、いつもうちのアルバイトを頑張ってくれているお嬢さんが不毛な言い合いをしている。 いつもの見慣れた光景だ。
 そしてそんな彼らを呆れた表情で見ながら、テキパキと作業を進めている女性と、店内がなぜかさまざまな花で 埋めつくされている、見慣れない光景。
 戸惑っている僕に気づいたのか、ショートカットの女性が会釈をした。笑うと、少し雰囲気が柔らかくなる。 背は高いが、とても女性らしい人のようだった。

「お邪魔しています。今日は彼女たちに頼まれてまいりました、アンネリーの有沢です」
「あぁ、これはどうも。このたくさんの花は――?」
「じいちゃんの誕生日プレゼントだよ! 驚いただろ? 澤田さんが言い出して、山代さん達が便乗してさ…… あとはほら、あの吉川さんとか……」

 答えたのは有沢さんではなく、瑛だった。次々と上がる名前は、僕の昔馴染みのヤツらと随分前か ら来てくれている常連客の人たちのものばかり。

「みんなでじいちゃんを驚かそうって! 澤田さん達もこれから来るんだ。いつも花を買わせてもらってるよしみでアンネリーさんの協力も得られたから 今、その準備中だったんだけど」
「準備中……ああ、それはすまないことをしたね」

 多分、僕に内緒で進められるはずだった計画も、僕が店で転寝をしていたせいで台無しにし てしまったに違いない。
 立ち上がろうとすると、お嬢さんと瑛が慌てて僕を止めた。ふと肩にかけられていた女物の白いカーデ ィガンに気づき手にとると、楽しげなお嬢さんと目が合う。

「マスターは、今日の主賓ですからどうぞそのまま。このお花、選んだのはマスターのお友達だったりお客様だったりしますけど、 店内の飾りつけを考えたのはサエキ…くんなんですよー。それにアンネリーの志穂先輩といえば、知る人ぞ知るフラワーアレンジメントの達人!」
「誇張表現はやめてちょうだいね。この仕事をしている人なら誰でもできるレベルだから」
「……と、謙遜されている奥ゆかしい志穂先輩の不肖のアシスタントはこのわたし。 マスターのために頑張りますので、完成までもう少し待っていて下さいね」
「ちょっと、あなた!」

 白い頬に朱をはしらせた有沢さんと、お嬢さんの仲が良さそうな様子に思わず僕は笑ってしまう。

「とても光栄な贈りものです。どうもありがとう。それじゃあお言葉に甘えて、僕は見学させてもらう としましょう」
「はい、こうご期待! うわーなんかはりきっちゃいますね、志穂先輩!」
「……はりきりすぎて、怪我をしないようにね」

 一見、話に夢中になっている彼女たちだが、手はよどみなく作業を続け、色鮮やかな花たちを 絡め、時に花びらの形を変えた凝った装飾が店内の壁から壁に現れる。魔法のような光景に目を奪われていると、瑛がそっと 近くに寄ってきた。
「なあ、じいちゃん」と耳打ちする声はいつになく静かで優しい。

「これ先に渡しておくよ。プレゼントとは別だけど」
「何だい?」

 渡されたのは群青色のケース。開くと、そこには青色のベリル、海の水のように淡いきらめきを放つ宝 石が入っていた。

「さゆりの……アクアマリン」
「だよな? やっぱり、ばあちゃんのだったか。昨日さ、なんでか知らないけど俺の部屋から出てきた んだ。もしかしてーと思って。じいちゃんに預けとく。父さんに返さなくていいから」

 瑛の部屋は、もともと僕とさゆりが使っていた部屋だ。
 別に可笑しくはないのだが、まさかこのタイミングで出てくるとは。
 どうやら瑛も同じことを考えていたようで、僕の顔をのぞきこんでくしゃりと砕顔した。

「偶然かもしれないけどさ、こういうのちょっと嬉しいよな」

 笑顔の瑛に、いつかの彼女が重なる。
 いくつになってもあどけない少女のように、いたずらっぽく瞳を輝かせて君は僕に笑いかけ るんだ。
――誕生日、おめでとう。あなた。



【END】
砕顔する=顔の原型をとどめないくらいうれしそうに笑う、ことだと思っていたんですが
なぜか辞書にのってない…。意味が違ってたらスミマセン。
有沢さん大好きです。総一郎さん誕生日おめでとうございました(←過去形)


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